浄土真宗 本願寺派
The introduction of the Zengyoji Buddhist Temple.
    お寺の掲示板に掲載中の『 法語 』をもとにした一口法話のページです。

The introduction of the Zengyoji Buddhist Temple.



              2008年8月上期 

 
      『 あたりまえ 』

                 善行寺住職 ・ 吉井 誠光


 ある門徒さんのご法事を、先日お勤めさせて
 いただいた時のことです。

 そのご門徒さんは、20年近く連れ添われた
 ご主人を、先日突然に亡くされたそうです。
 通夜葬儀を終え、現実を受け止められるよう
 になった49日法要で、私がお勤めをさせて
 いただくご縁をいただきました。

 施主である奥様は、働き盛りのご主人をある
 日 突然亡くされた悲しみを通して『 主人が
 亡くなってはじめて、今まで主人が生きてい
 たことが、あたりまえでなく“ 生かされて
 生きてきた”とうなずかせていただきます。
 それと同時に、私自身も“ 受けがたい人と
 してのいのち ”を現世にいただきこの瞬間
 も生かされている事に感謝できるようになり
 ました。 』と述懐されておられました。

 まさに、“ 人身受け難し・今すでに受く ”
 (三帰依文)の御文の通り私達は尊いご縁
 により、この世に人間として生まれさせて
 いただきました。そして いただいたいのち
 の中で日々悩み苦しみながらも、生かされ
 て生きております。しかし、そのいのちは
 “ 明日 ”この世に存在しているかどうか
 もわからない“ 不定ないのち ”だからこ
 そ、今日という日を迎えられる事が“ あた
 りまえ ”でないという、うなずきにつなが
 るといえましょう。

 私の自坊(生まれ育った寺)善行寺の門徒
 総代を、代々務めて下さっている井村さん
 というご家族がいらっしゃいます。
 そのご親戚であった医師の井村和清さんは
 悪性腫瘍になり余命宣告を受けられた時、
 飛鳥ちゃんというお子さんと、まだ奥様の
 お腹の中に宿ったばかりのお子さんのため
 に書き遺された『 飛鳥へそしてまだ見ぬ
 子へ(祥伝社刊)』という本の中で、あた
 りまえをこのように味わっておられます。



 《 あたりまえ こんな素晴らしいことを
   みんなはなぜ喜ばないのでしょう。
   
あたりまえであることを
   お父さんがいる お母さんがいる
   手が二本あって、足が二本ある
   行きたいところへ自分で歩いてゆける
   手をのばせばなんでもとれる
   音がきこえて声がでる
   こんなしあわせはあるでしょうか
   しかし、だれもそれをよろこばない
   あたりまえだ、と笑ってすます

   
   食事がたべれる 
   夜になるとちゃんと眠れ
   そして又朝がくる

   空気をむねいっぱいすえる 
   笑える、泣ける、叫ぶこともできる

   走りまわれる 
   みんなあたりまえのこと


   こんな素晴らしいことを、みんなは
   決してよろこばない

   そのありがたさを知っているのは、
   それを失くした人たちだけ


   なぜでしょう あたりまえ 》


 遠い宿縁により、いのちをこの世にいただ
 いた私達でありますが、振り返れば思い通
 りにいかない日々に対して、愚痴と・怒り
 ばかりを申すこの身になってはいなかった
 でしょうか?

 “ あたりまえ ”ではなく“ ありがたい ”
 と日々、心からいただけない私達・・・。
 その姿は、まさに“無明”の闇をあてもな
 くさまよっている“ 煩悩具足の凡夫 ”で
 ある私自身の姿でありました。

 しかしながら、阿弥陀如来の光明は“ あ
 たりまえ ”と日々、無明の闇をさまよう
 私達一人一人に向けられ、そこには《 彼
 の仏の心光、常に是人を照らし摂護して
 捨てず(善導大師) 》と顕かにされてい
 るように、私達のいのちが闇の中をさま
 ようあてなき道であってはならないとい
 う願いと、無明煩悩を歩み続ける私達こ
 そ救わずにはおれない、という誓いを信
 知させていただいた瞬間、“ あたりま
 え ”ではなく“ ありがたい ”という、
 うなずき(めざめ)につながせていただ
 いているといえましょう。

 皆様にとっても、“ あたりまえ ”でな
 く“ ありがたい ”と感謝させていただ
 きながらこの人生を大切に歩まれますよう。

 どうぞ、いただいた いのちとご縁を大切に。合掌



   私が願われ
     誓われていることを
   信知させていただく
     慈悲のひかり

Copyright (C) 2006 The Zengyoji Buddhist Temple
of the Jodo Shinshu, All right reserved.

ホームページ上に掲載されている文章や写真
等の無断転載は御遠慮下さい。






             2008年6月上期 

 
      『 宿縁 』

                     住職・吉井 誠光

  通夜・葬儀、そして法事の席などで、ご家族・ご親戚
  とお話しをする時間をいただく時があります。そんな
  時、愛する方・大切な方を失った悲しみや焦りを抱え
  ながらも、その別れを“ 自らのご縁 ”として仏教、
  そして浄土真宗の教えをこれからの人生でいただこう
  とする方もいらっしゃれば、お坊さんに来てもらい
  お経をあげてもらったんだから事足れり、陰気くさい
  話しは
これでおしまい、と自らの“ いのちのご縁 ”
  と切り離して、この世を謳歌する生き方を望まれ
る方
  もいらっしゃいます。

  いつも申しておりますが、仏教とは“ 成仏の教え ”
  であります。苦しみや、悩みが生きている間、尽き
  ない人間界を含めた境界を離れ、自らが悟りの境地
  である仏と成らせていただくための道・教えであり
  ます。けっして、この世を謳歌する生き方や、苦か
  ら目をそらして苦に遇わないようにするための祈祷
  や、お払いをする教えではありませんし、亡くなら
  れた方を供養・成仏させるためのお経でも教えでも
  なく、此の現世に遇いがたい“人としてのいのち”
  をいただき、生かされ生きる私達、一人ひとりに向
  けられている“ 仏と成る教え ”でありました。

  思えば、私達のいのちは、本願寺第8代留守職であ
  った蓮如上人の言葉どおり『 今日とも知れず明日
  とも知れず( 御文章・白骨の章 ) 』であり『
  老少不定( 年老いたものが先で若いものが後とい
  う道理もない ) 』の、まさにロウソクの灯火の
  ような いのちが現実の私達の“ いのちの姿 ”で
  あります。

  何事も思い通りにいかず、生を求めても自らの
  はからいでは生きられず、逆に死を求めても自死
  以外の手だてでは死ぬことも思い通りにならない
  “ ありのままのいのち ”でもあります。

  しかも、このいのちは、私達が人間として生まれ
  させていただくはるか過去から、生まれかわり死
  にかわり・・・と流転を繰り返してきたいのちで
  ありました。遠い宿縁により、せっかく人間とし
  て生まれさせていただいた“ いのち ”は果たし
  て、この苦界(=人間界)を謳歌し、幸せな日々
  を過ごす為だけに、生きることを望んでいるので
  しょうか。愛する方や大切な方との“ 死 ”とい
  う別れのご縁を通して、自らのいのちのゆくえを
  めざめさせていただく為の“ ご仏縁 ”であると
  いえるのではなかったでしょうか。

  この事を、中西 智海師は 次のように述べておら
  れます。


  《  人生は長さではなく、めざめであります。
     めざめない人生をどれだけ長く生きても、

     それは流転のいのちであり、空しく過ぎる
     のみです。それではこの世に人間として

     生まれさせていただいた意味も、
     ほんとうの慶びも獲られません。

    ( 中西 智海師・真宗法語のこころ )  》

  せっかく生まれさせていただいた“ 人間としての
  いのち ”を流転のいのちとして歩むのではなく、
  いのちの決定的なめざめ(行信)を獲るための“
  いのち ”であり、その“ 出遇い ”を此の現世で
  いただくために、私達は生かされて生きていると
  いえましょう。

  浄土真宗は修行を積んで“ 成仏への道 ”を歩む
  のではなく、『 いずれの行もおよび難き身 』と
  宗祖親鸞聖人が顕かにされたように、煩悩が生き
  ている限り尽きない救われざる私を 『 救わずに
  はおれない 』と大いなる慈悲で、すべての生き
  とし生けるもの達を照らす阿弥陀如来に『 自ら
  のはからい(自力行)を捨てすべてをお任せ致し
  ます 』と、二心なく一心にいただくことであり
  ました。

  そして、自らのはからいが無力である事を信知
  させていただいた時に、これ以上流転を繰り返
  させないと誓い続けて下さっていた阿弥陀如来
  の大いなる慈悲に、報恩感謝の『 南無阿弥陀仏
   』と口から称名させていただくのが、浄土真宗
  本願他力念仏往生(成仏)の教えでありました。
  
  過去からつながる“ いのち ”をあらためて自ら
  の事としていただく・・・遠い過去から続く宿縁
  に感謝させていただきながら、このご縁の人生を
  大切に歩まれますよう・・・。


  どうぞ、いただいた いのちとご縁を大切に。 合掌


   煩悩にまみれる私を
 捨てずに照らし続けて下さる
     阿弥陀さま

Copyright (C) 2006 The Zengyoji Buddhist Temple
of the Jodo Shinshu, All right reserved.

ホームページ上に掲載されている文章や写真
等の無断転載は御遠慮下さい。






             2008年5月上期 

 
     『 おかげさま 』

                     住職・吉井 誠光

  善行寺では毎月寺報(お寺たより)を発行しており
  現在、第18号を迎えさせていただいております。
  毎月、『 今月は何を書こうか・・』と思案しなが
  らの月初めです。

  寺報発行までの作業行程は、坊守と二人での原稿の
  下書き、構成、レイアウトをした上で印刷、合わせ
  作業、そして封筒への袋つめをおこない発送となり
  ますが、その後も郵便局で仕分けされ、各地へ送ら
  れ、そして各ご家庭に配達されているんですよね。
  思えば、実に多くの方々の手を経て、皆様の手元に
  届けられるものであるという事をあらためていただ
  きます。


  毎月、当たり前のように思っておりましたが、私達
  の見えない所で、実に多くの助けをいただきながら
  善行寺寺報が生まれ、ご門徒の方々の手元に届けら
  れている事に感謝させていただく瞬間であります。

  思えば、私達一人一人の人生も同じではなかったで
  しょうか?・・・受け難いいのちと、その中にある
  人生でいただく数々の“ 出会いと別れ ”のご縁の
  中で、私達は日々生かされ生きています。
  それは、共にいただいた“ いのち ”とその人生の
  中で互いに助け合い、共に喜びを共有し、見えない
  所でも誰かが私達の今日のいのちを、そして悲しみ
  や嬉しさを共にし、生かされるいのちであると言え
  ましょう。


  ≪  悲しみを 温めあって 歩いて行こう
           (  坂村 真民氏  ) 


  日々の生活の中で、私達はついつい自分だけの力で
  もしくは他の人には世話にならず生きているという
  驕りや高ぶりというものがなかったでしょうか。
  しかしながら、生きとし生かされる私達のいのちは
  目に見えない所で実に多くのご縁といのちのおかげ
  によって生かされているはずであります。


  そのような数々のご縁といのちに『 おかげさま 』
  という感謝の思いが出てこないばかりか、煩悩にま
  みれ、自己の反省もなく、他人を責めたり怒ったり
  する私達が、不思議ながら今日といういのちを生か
  されていると気付かされ、『 おかげさまで共に生か
  され生きておりますね 』と、深い懺儀(ざんぎ)と
  感謝の思いの中で過ごす人生が、お念仏の中に生か
  される私達の人生と言えましょう。


  阿弥陀さまは、『 あなたの苦しみは・私の苦しみで
  ありました 』と私達一人一人をいだかれ、浄土真宗
  宗祖・親鸞聖人は『 一人居て喜べば二人と思え・・
  その一人は親鸞なり・・・ 』と述べておられます。
  決して一人ではない、決して自分だけの力で生きて
  いるのではない、このいのち・・・。


  『  さあ安心してこの親(如来)に任せよ・・・
  かならず救いとり捨てたまわず・・・ 』と誓われて
  その願いにいだかれながら、他と共に苦しみや喜び
  を温めあって歩ませていただく人生であったことに
  気付かされた、寺報の作成での瞬間でありました。


  どうぞ、いただいた いのちとご縁を大切に。合掌


     おかげさま
     ありがとうと
  歩ませていただくいのち

Copyright (C) 2006 The Zengyoji Buddhist Temple
of the Jodo Shinshu, All right reserved.

ホームページ上に掲載されている文章や写真
等の無断転載は御遠慮下さい。






              2008年4月上期 

 
       『 であい 』

                     住職・吉井 誠光

  私達の人生では数多くの別れを経験しながら、この
  世界を歩んでおります。親・子・伴侶・祖父母・友
  人・親戚・・・。

  死別や離婚をはじめ、喧嘩別れや仲たがいしての別
  れなど、その因は様々でありましょう。特に愛する
  方や、大切な方との死別は、通夜葬儀を執り行わせ
  ていただく住職として、毎回深く考える所が多いも
  のです。


  愛する方・大切な方を失ったご遺族に対し、住職と
  してこの世でのいのちの別れというものを、けっし
  て『 さようなら 』と述べる通夜・葬儀であって欲
  しくないという一心で、私はいつも通夜の席のご法
  話で、ある方の詩を紹介させていただいております。

  それは、島根県江津市にある、浄土真宗本願寺派
  光善寺住職であった波北彰信師が、30数年連れ
  添われた坊守さんを、くも膜下出血という病気で
  突然亡くされた時に、奥様との“ 出遇いと別れ ”
  を『 さようなら 』と申す別れにしたくないとい
  う願いであると共に、“ 愛別離苦( 愛するもの
  と離れなければならない苦しみ )”を坊守様の
 “ 死 ”というご縁によって、あらためて気付かさ
  れた・・・といただいておられます。


  それと共に、浄土往生( お念仏を申して浄土に
  往生する )が私達の最終目的地でなく、浄土往生
  を遂げられた瞬間、仏と成り その仏は悩み苦しみ
  が絶えない“ 苦界 ”を歩む私達 衆生救済のおは
  たらき( あらゆるものを目覚めさせ、その目覚め
  のはたらき )として、還相回向の二種の恵みを持
  たれた存在になって、この今も共に生きておられ
  るんだ・・・と味わっておられるのでした。


  『  〜 出遇い 〜

 あまりにも急な別れでしたが 母と子・妻と夫
   友だち それぞれに

   いのちといのち 心と心のふれあった 確かな
   出遇いと中に
共に生きてきたことを
   今なお 共に生きていることを 
   ありがたく思います。

    〜 遇えてよかったネ 〜


   なかなか 遇えることじゃないのに 
   あなたに遇えてよかった

   あえてよかったネ
   大事なことを いのちの輝きを
   教えて下さいまして ありがとう  

       ( 人生のほほえみ・波北彰信 ) 』


  諸行無常の苦界を歩む私達・・・。それは、年を
  老いた者が先で、年の若い者が後という道理もな
  い“ ありのままの現実の中にある、ありのまま
  の いのちの姿 ”でありました。


  その人生の歩みを日々送る私達には、数々の別れ
  と出遇いが、波のように押し寄せてくる、この
 “ いのちであり人生 ”であると言えましょう。

  愛する方、大切な方との“ 別れ ”それはまさに
 “ 私の明日の姿 ”であるといただくと共に、そこ
  には『 闇の世界・迷いの世界を“ あなた ”に
  歩ませたくない 』という、阿弥陀仏の大いなる
  智恵と慈悲のはたらきが“ 私 ”に向けられてい
  たと、信知させていただく“ ご縁 ”でありまし
  た。

  この世での尊いご生涯を終えられ、阿弥陀仏にい
  だかれ浄土で仏となられた愛する方・大切な方は
 『 私を供養し回向する為に、法の事を欠かさないで
  おくれ 』と願っているのではなく、『 今日とも
  知れず明日とも知れずという不定な いのちを歩む
 “ あなた ”だからこそ、往生浄土(
お念仏を申し
  て浄土に往生する )のご縁を今、持たせていただ
  く法の縁としてくれよ・・ 』と願っておられるの
  です。


  詩の中にある『 共に生きてきたことを 今なお
  共に生きていることを ありがたく思います 』と
  述べておられるのには、以上の願いをいただかれ
  た深いあじわいであると言えましょう。


  日々の生活を謳歌し、目先の暮らしを優先させる
  生き方ではなく、往生浄土のみちを聴聞させてい
  ただき、いのちを尽くしてゆく道を歩ませていた
  だく・・・。

  愛する方や大切な方との別れが、そんなご縁とな
  りますよう。


  どうぞ、いただいた いのちとご縁を大切に。合掌


      別れが
  いのちの出遇いのご縁に
   なって下さっている

Copyright (C) 2006 The Zengyoji Buddhist Temple
of the Jodo Shinshu, All right reserved.

ホームページ上に掲載されている文章や写真
等の無断転載は御遠慮下さい。






            2008年3月上期 

 
    『 ありがとう 』

                     住職・吉井 誠光

  仏教では、この世界(六道)は苦界であり、人生
  の真相は苦であるという真理を説いています。
  その苦とは四苦八苦すなわち、生・老・病・死の
  根本苦に、愛別離苦(愛するものと別離する苦し
  み)・怨憎会苦(怨念や憎しみを抱いてる人とも
  会わなければならない苦しみ)・求不得苦(求め
  てもそれが得られない苦しみ)・五蘊盛苦(人間
  が生きていること自体が苦しみ)の四苦を加えた
  もので、その中を歩まなければならない“ありの
  ままのいのち”があらわされています。

  しかし、その苦が自らのこととなった時、私達は
  “ありのままに”受けとめる事ができないばかり
  か『 なぜ自分だけが・・ 』と悲歎にくれ、その
  原因や起因するものに対して、怒り・愚痴りとい
  う事を繰り返してはいなかったでしょうか?


  私事ですが、2週間前から右足の足首が歩く度に
  “ ズキズキ ”しておりました。思い当たる節は
  なかったので『 捻挫でもしたかな・・ 』と自己
  判断し湿布を貼っておりましたが、3日経っても
  1週間経っても良くなりません。そこで先日、整
  形外科で見たもらったら 『 骨が剥離して神経を
  圧迫している 』との事でした。どのように治療
  するのかを尋ねると『 好転することもあるでし
  ょうが、根本的な解決は、大きな病院での手術
  しかないですね・・・』という医師のお言葉。
  『 あとは、右足に負担をかけないよう 無理な
  正座は控えてください 』との事。
  小さい頃の重度の捻挫や、骨折が原因かもしれ
  ない・・・という事ですが、何気なく歩くこと
  座ることが『 当たり前ではなく なんと素晴ら
  しい事だったんだろうか 』と あらためて実感
  すると共に、これからの事を考えると『 この
  先、今まで通り住職としてやっていけるのだろ
  うか・・日常生活は送れるのだろうか・・・』
  という、見えないものへの不安や、焦りを感じ
  たのも事実でした。


  そこには病を 自らと切り離した“特別な事”
  として病と一緒に歩むのを認めたくなくなくて
  現実を拒否したくなる自分自身がありました。
  生老病死の病を、自らの事として教えてくれた
  ことに『 ありがとう 』も言えない自分自身の
  “ ありのままの ”姿がありました。

  その夜、ある本を読んでいて、ある女性が書
  かれた詩を見つけました。46歳の時に、乳
  がんで、ご主人と4人のお子さんを残し、お
  浄土へ還られた 鈴木章子さんの『 肉体 』
  という詩でした。そこには 病気となりなが
  らも自らの身体(肉体)への感謝と共に、
  その身体に対して、文句を言い続けていた
  自分自身の姿が書き記されていました。


  『  足が短い・ずん胴・色が黒い
     デブ と ノロイ・オソイ と
     まあ毎日毎日 私の文句を聞きながら
     あなたは今日まできてくれた。
     私だったら もうスネて ふてって
     どんなになっていただろう

     片方になった乳房  
     肩から脇へ裂かれた傷のあと

     まあ 一言の文句もなく
     一緒にきてくれた。
     すいぶんの我がままも聞いてくれた

     お風呂に入りながら あなたのご苦労に
     あなたのおかげに
     はじめて気づかされました。
     はじめての ありがとう  
     遅ればせながら ありがとうを
     今 言わせていただきます。
         ( 肉体 / 鈴木章子 著 ) 』


  都合の悪い事や、身にふりかかって欲しくない
  事があると、ついつい愚痴や妬み、怒りが込み
  上げてくる自己本位の姿は、まさしく浄土真宗
  宗祖・親鸞聖人が仰った『 煩悩具足の凡夫 』
  の姿でありました。鈴木さんが述懐されたよう
  に『 ありがとう 』と言えない私達。しかし、
  自らのはからいを離れ、すべてを委ねた瞬間、
  それまで怒りや悩みの対象であったものでさえ
  『 ありがとう 』という感謝の言葉を述べる姿
  とならせていただいたのでした。

  
煩悩具足の凡夫が、その煩い悩み続ける身であ
  る事を『 かねて知らしめし 』たのが、阿弥陀
  如来のご本願であります。その願いと救いの対
  象は、私達に向けられていたと信知させて
いた
  だいた瞬間すべてを委ね、いだかれている安心
  が『 ありがとう 』の言葉でありましょう。

  苦しみや悩みがつきないのが、私達の人生であ
  り、このいのちであります。しかし、まさにそ
  こに向けられていた願いと救いが、阿弥陀如来
  のご本願であったのでした。


  どうぞ、いただいた いのちとご縁を大切に。合掌


    ありがとう
    おかげさま
    もったいない
    南無阿弥陀仏

Copyright (C) 2006 The Zengyoji Buddhist Temple
of the Jodo Shinshu, All right reserved.

ホームページ上に掲載されている文章や写真
等の無断転載は御遠慮下さい。






            2008年2月上期 

 
    『 いただきます 』

                     住職・吉井 誠光

   浄土真宗では食前と食後に『 食前のことば 』
  『 食後のことば 』をいただき食します。例えば
  食前のことばでは 合掌して、『 み仏と皆さまの
  おかげにより、このご馳走を恵まれました。
深く
  ご恩を喜びありがたくいただきます。 』と 家族
  一緒にいただくのです。


  最近、一部の公立学校では合掌も“ いただきま
  す ”もせず、昼食をいただくところがあるそう
  です。保護者が『 学校で宗教儀式を強制するの
  はよくない 』とか『 給食費を出している(お金
  を出している)のだから、いただくというのは
  おかしい 』という声があり、中止せざるをえな
  かったという話をよく伺います。なんだか寂しい
  話ですね。『 お金を出しているのだから好きに
  食べさせろ 』というのが、その親達の本心だと
  するのであれば、あまりに“ 自己本位 ”な生き
  方であるとは言えないでしょうか。

   
私達は、実に多くの“ いのちの犠牲により ”
  このいのちを生かされ、生きております。ハンバ
  ーグ、から揚げ、ブリの照り焼き、サラダ・・・
  お米やパンに至るまで、すべてに“ いのち ”が
  存在していました。そこには、決して人間様に食
  べられるために生まれてきた“ いのち ”ではな
  かった筈です。だからこそ私の“ いのち ”を永
  らえさせていただくため “ お肉やお魚、そして
  お米やお野菜の『 いのち 』をありがたくいただ
  く・・・”という意味が、前述の『 深くご恩を
  喜びありがたくいただきます 』でありましょう。

   仏説阿弥陀経というお経の中に『 青色青光・
  黄色黄光・赤色赤光・白色白光・微?香潔・』と
  いう一節があります。浄土の池に咲く蓮華には、
  青色の花は青色の光を放ち、黄色の花は黄色の光
  を放ち・・・それらはいずれも、けだかい浄らか
  な香りを放っていると説かれています。すなわち
  西方の極楽浄土は、すべてのいのちが等しいだけ
  でなく、それぞれがそれぞれの光を放つ調和され
  た世界を表されています。


  私達の生きるこの世界、そして日々の生活はどう
  だったでしょうか?振り返れば、殺生するばかり
  でなく、その物を『 美味いだの まずいだの 』と
  評価の対象にしてはいなかったでしょうか。


   動物であれ、植物であれ、そこには一つの“
  いのち ”があり、精一杯“ いのち ”の光を放っ
  ていたものが、私達人間の“ いのち ”を永らえ
  させるという目的で“ いのち ”を下さったから
  こそ、私達は その“ いのちのご恩に対して ”
  ありがたく いただきます ”であったのでした。
  その事を『 お金を払っているんだから・・・』
  と開き直る所には、あまりに悲しい無明の姿で
  あると言えるでしょう。そのような悪業を繰り
  返しながら、いのちを尊ぶこともせず、自分の
  都合や自分の利益の為だけに『 神仏に祈ったり
  供養をおこなう姿 』を宗祖・親鸞聖人は和讃の
  中で


  『 外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜ
    しむ 貪瞋邪偽おほきゆえ 
奸詐ももはし
    身にみてり( 正像末和讃・悲歎述懐讃 ) 』


  “ 外面に現れた身のふるまいはひとごとに 
    賢く善を行いつとめているかのように見せ

    かけながら 心は貪り瞋恚の偽りばかりで
    だますこと数知れない身である ”


  と自らを悲歎されています。

  口ではきれい事をならべながら、善行・供養を
  行っているとしても見せかけだけであると共に、
  心の奥底には妬み怒り、貪りの心が渦巻い
ている
  姿・・・それは、私達一人一人の姿でもあったと
  気付かされます。“ いのち ”をいただきながら
  も感謝しようともしない姿・・・それはまさしく
  人間の外面をしながら、心の中は貪瞋邪偽そのも
  のであると言えましょう。


  どうぞ、いただいた いのちとご縁を大切に。合掌


   あなたのいのちと
   わたしのいのちに
  ありがとういただきます

Copyright (C) 2006 The Zengyoji Buddhist Temple
of the Jodo Shinshu, All right reserved.

ホームページ上に掲載されている文章や写真
等の無断転載は御遠慮下さい。






            2008年1月上期 

 
     『 生死の苦界 』

                     住職・吉井 誠光

  日々、暮らしておりますと“ ちょっとした ”悩みから
  生死にかかわる苦しみまで、人には人それぞれの悩みや
  苦しみが絶えないものです。楽しく笑顔の時間が永遠に
  続く事を望みながらも、それが叶えられない世界・・。
  自分の思うように物事が進まない世界・・それが苦界と
  説かれた人間界の現実の姿であります。


  その“ いのち ”の中で私達は 自分の思うように物事
  が進まないとそれに腹を立て、病気になった時には『
  真面目に生活してきた私がなぜ 』と落胆し、年を重ね
  れば、若い者を羨み『 今時の若い者は・・』と愚痴り
  ・・ 。と“ 我 ”が本位の日々を送ってはいなかった
  でしょうか? そしてそこから目をそらすため、あるい
  は思い通りの一年を迎えたいがために、神頼み・仏頼み
  に走ってはいなかったでしょうか?


  過去からつながる深いご縁の中でいただいた、私達一人
  一人の“ いのち ”は、決して他人と比べるためのもの
  でも、苦界と説かれた現実を直視せず逃げるための生き
  方でも、もしくは物質的な欲求を満たすための生き方で
  もないと言えましょう。ある障害を持たれた方の手紙に
  は、ご自身のいのちを直視すると共に、生かされ生きる
  いのちを次のように味わっておられます。


  『 私はふつうの幼児とは違い先天性骨不全という病気
    で、いつも苦痛と死とが友でした。幼い頃から多く
    の新興宗教の方が、大変まれな病気の私の噂を聞き
    つけては訪れ、祖先の祟りだとか、前世の呪いだと
    か言いつのり勧誘にきました。

    しかし、もともと安芸門徒の祖母や母の篤い信心に
    影響されて、私は如来さまを知らずしらず慕ってい
    ました。とはいうものの、思春期を迎えた私は自分
    の病苦の重さにあらためて驚き苦悩しました。
    これを治せない宗教なんて、と浄土真宗にひそかに
    八つ当たりをして呪っていました。そして自殺した
    いと念願し続けていました。でも、幼い時から私を
    てらしてくださり続けた光明の一条が私へ問い続け
    ました。

    『 何のために生きるのか 』『 何のために?』と。
    そのとき『 人身受け難し 』『 無碍の光明は無明の
    闇を破する恵日なり 』のお言葉が、私の人生を強く
    ゆり動かしたのです。濁った空気の中に清風が吹き
    ぬけた感じです。ショックでした。でもそれは安ら
    ぎでした。ささくれた心に何百時間ぶりに感じた深
    い安らぎでした。

    『 私は仏さまに遇うために生まれさせていただいた
    のだ 』という強いうなずきでした。永劫の時間を感
    じました。浄土真宗という宗教は、ほんとうに私を
    目当てに開かれ、思惟してくださったのだと思いま
    した。いま、こうして病気の身ですが、身の健康を
    与えられたよりもほんとうの人生の意義を感じさせ
    ていただいています。(略)

    
( 真宗法語のこころ・中西智海師 より ) 』

  この世に“ いのち ”をいただいた大きな意味・・・
  それは“ 生死の苦界ほとりなし ”と説かれたように、
  深い苦悩の現実が広がる“ 人としてのいのち ”を生き
  る意味を問うと共に、人間誰もが持ち続ける苦悩を“
  ありのまま ”に照らし出された“ いのち ”にめざめ
  させていただくことでした。そして、その苦悩を抱え
  続ける私達一人一人を『 救わずにはおれない 』と誓い
  願い続けていた阿弥陀如来の誓願に気付かせていただく
  ための“ いのち ”であり“ 人生 ”でありましょう。


  浄土真宗の教えは、病気を治すためでも、事業が上手く
  いくためでも、まして先祖方を供養するための教えでも
  なく、今を生きる私達に対して、波のようにつぎつぎと
  押し寄せてくる苦しみと悩みの現実から逃げかくれせず
  阿弥陀如来の誓願である『 摂めとって捨てたまわぬ 』
  のまことをいただき、苦悩と共に歩ませていただく安ら
  ぎであるといえましょう。


  私を含め、一人一人の人生にはそれぞれの悩みや苦しみ
  があるものです。しかし、そこに『 私ばかりが・・・』

  と嘆き悲しむ生き方でなく、『 苦悩を教えていただく
  ご縁であった 』しかし『 阿弥陀如来にいだかれ、願わ
  れ通しのいのちであることを気付かせていただく人生で
  あった 』と感謝を申す生き方でありたいものです。


  どうぞ、いただいた いのちとご縁を大切に。 合掌


 
    苦悩を照らしだされ
 
自らの闇の深さに気付かされる


Copyright (C) 2006 The Zengyoji Buddhist Temple
of the Jodo Shinshu, All right reserved.

ホームページ上に掲載されている文章や写真
等の無断転載は御遠慮下さい。





トップページへ

The introduction of the Zengyoji Buddhist Temple.