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お寺の掲示板に掲載中の『 法語 』をもとにした一口法話のページです。![]() |
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2008年8月上期 『 あたりまえ 』 善行寺住職 ・ 吉井 誠光 ある門徒さんのご法事を、先日お勤めさせて いただいた時のことです。 そのご門徒さんは、20年近く連れ添われた ご主人を、先日突然に亡くされたそうです。 通夜葬儀を終え、現実を受け止められるよう になった49日法要で、私がお勤めをさせて いただくご縁をいただきました。 施主である奥様は、働き盛りのご主人をある 日 突然亡くされた悲しみを通して『 主人が 亡くなってはじめて、今まで主人が生きてい たことが、あたりまえでなく“ 生かされて 生きてきた”とうなずかせていただきます。 それと同時に、私自身も“ 受けがたい人と してのいのち ”を現世にいただきこの瞬間 も生かされている事に感謝できるようになり ました。 』と述懐されておられました。 まさに、“ 人身受け難し・今すでに受く ” (三帰依文)の御文の通り私達は尊いご縁 により、この世に人間として生まれさせて いただきました。そして いただいたいのち の中で日々悩み苦しみながらも、生かされ て生きております。しかし、そのいのちは “ 明日 ”この世に存在しているかどうか もわからない“ 不定ないのち ”だからこ そ、今日という日を迎えられる事が“ あた りまえ ”でないという、うなずきにつなが るといえましょう。 私の自坊(生まれ育った寺)善行寺の門徒 総代を、代々務めて下さっている井村さん というご家族がいらっしゃいます。 そのご親戚であった医師の井村和清さんは 悪性腫瘍になり余命宣告を受けられた時、 飛鳥ちゃんというお子さんと、まだ奥様の お腹の中に宿ったばかりのお子さんのため に書き遺された『 飛鳥へそしてまだ見ぬ 子へ(祥伝社刊)』という本の中で、あた りまえをこのように味わっておられます。 《 あたりまえ こんな素晴らしいことを みんなはなぜ喜ばないのでしょう。 あたりまえであることを お父さんがいる お母さんがいる 手が二本あって、足が二本ある 行きたいところへ自分で歩いてゆける 手をのばせばなんでもとれる 音がきこえて声がでる こんなしあわせはあるでしょうか しかし、だれもそれをよろこばない あたりまえだ、と笑ってすます 食事がたべれる 夜になるとちゃんと眠れ そして又朝がくる 空気をむねいっぱいすえる 笑える、泣ける、叫ぶこともできる 走りまわれる みんなあたりまえのこと こんな素晴らしいことを、みんなは 決してよろこばない そのありがたさを知っているのは、 それを失くした人たちだけ なぜでしょう あたりまえ 》 遠い宿縁により、いのちをこの世にいただ いた私達でありますが、振り返れば思い通 りにいかない日々に対して、愚痴と・怒り ばかりを申すこの身になってはいなかった でしょうか? “ あたりまえ ”ではなく“ ありがたい ” と日々、心からいただけない私達・・・。 その姿は、まさに“無明”の闇をあてもな くさまよっている“ 煩悩具足の凡夫 ”で ある私自身の姿でありました。 しかしながら、阿弥陀如来の光明は“ あ たりまえ ”と日々、無明の闇をさまよう 私達一人一人に向けられ、そこには《 彼 の仏の心光、常に是人を照らし摂護して 捨てず(善導大師) 》と顕かにされてい るように、私達のいのちが闇の中をさま ようあてなき道であってはならないとい う願いと、無明煩悩を歩み続ける私達こ そ救わずにはおれない、という誓いを信 知させていただいた瞬間、“ あたりま え ”ではなく“ ありがたい ”という、 うなずき(めざめ)につながせていただ いているといえましょう。 皆様にとっても、“ あたりまえ ”でな く“ ありがたい ”と感謝させていただ きながらこの人生を大切に歩まれますよう。 どうぞ、いただいた いのちとご縁を大切に。合掌 私が願われ 誓われていることを 信知させていただく 慈悲のひかり
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2008年6月上期 『 宿縁 』 住職・吉井 誠光 通夜・葬儀、そして法事の席などで、ご家族・ご親戚 煩悩にまみれる私を 捨てずに照らし続けて下さる 阿弥陀さま
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2008年5月上期 『 おかげさま 』 住職・吉井 誠光 善行寺では毎月寺報(お寺たより)を発行しており
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2008年4月上期 『 であい 』 住職・吉井 誠光 私達の人生では数多くの別れを経験しながら、この 世界を歩んでおります。親・子・伴侶・祖父母・友 人・親戚・・・。 死別や離婚をはじめ、喧嘩別れや仲たがいしての別 れなど、その因は様々でありましょう。特に愛する 方や、大切な方との死別は、通夜葬儀を執り行わせ ていただく住職として、毎回深く考える所が多いも のです。 愛する方・大切な方を失ったご遺族に対し、住職と してこの世でのいのちの別れというものを、けっし て『 さようなら 』と述べる通夜・葬儀であって欲 しくないという一心で、私はいつも通夜の席のご法 話で、ある方の詩を紹介させていただいております。 それは、島根県江津市にある、浄土真宗本願寺派 光善寺住職であった波北彰信師が、30数年連れ 添われた坊守さんを、くも膜下出血という病気で 突然亡くされた時に、奥様との“ 出遇いと別れ ” を『 さようなら 』と申す別れにしたくないとい う願いであると共に、“ 愛別離苦( 愛するもの と離れなければならない苦しみ )”を坊守様の “ 死 ”というご縁によって、あらためて気付かさ れた・・・といただいておられます。 それと共に、浄土往生( お念仏を申して浄土に 往生する )が私達の最終目的地でなく、浄土往生 を遂げられた瞬間、仏と成り その仏は悩み苦しみ が絶えない“ 苦界 ”を歩む私達 衆生救済のおは たらき( あらゆるものを目覚めさせ、その目覚め のはたらき )として、還相回向の二種の恵みを持 たれた存在になって、この今も共に生きておられ るんだ・・・と味わっておられるのでした。 『 〜 出遇い 〜 あまりにも急な別れでしたが 母と子・妻と夫
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2008年3月上期 『 ありがとう 』 住職・吉井 誠光 仏教では、この世界(六道)は苦界であり、人生 しかし、その苦が自らのこととなった時、私達は 苦しみや悩みがつきないのが、私達の人生であ
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2008年2月上期 『 いただきます 』 住職・吉井 誠光 浄土真宗では食前と食後に『 食前のことば 』 『 食後のことば 』をいただき食します。例えば 食前のことばでは 合掌して、『 み仏と皆さまの おかげにより、このご馳走を恵まれました。深く ご恩を喜びありがたくいただきます。 』と 家族 一緒にいただくのです。 最近、一部の公立学校では合掌も“ いただきま す ”もせず、昼食をいただくところがあるそう です。保護者が『 学校で宗教儀式を強制するの はよくない 』とか『 給食費を出している(お金 を出している)のだから、いただくというのは おかしい 』という声があり、中止せざるをえな かったという話をよく伺います。なんだか寂しい 話ですね。『 お金を出しているのだから好きに 食べさせろ 』というのが、その親達の本心だと するのであれば、あまりに“ 自己本位 ”な生き 方であるとは言えないでしょうか。 私達は、実に多くの“ いのちの犠牲により ” このいのちを生かされ、生きております。ハンバ ーグ、から揚げ、ブリの照り焼き、サラダ・・・ お米やパンに至るまで、すべてに“ いのち ”が 存在していました。そこには、決して人間様に食 べられるために生まれてきた“ いのち ”ではな かった筈です。だからこそ私の“ いのち ”を永 らえさせていただくため “ お肉やお魚、そして お米やお野菜の『 いのち 』をありがたくいただ く・・・”という意味が、前述の『 深くご恩を 喜びありがたくいただきます 』でありましょう。 仏説阿弥陀経というお経の中に『 青色青光・ 黄色黄光・赤色赤光・白色白光・微?香潔・』と いう一節があります。浄土の池に咲く蓮華には、 青色の花は青色の光を放ち、黄色の花は黄色の光 を放ち・・・それらはいずれも、けだかい浄らか な香りを放っていると説かれています。すなわち 西方の極楽浄土は、すべてのいのちが等しいだけ でなく、それぞれがそれぞれの光を放つ調和され た世界を表されています。 私達の生きるこの世界、そして日々の生活はどう だったでしょうか?振り返れば、殺生するばかり でなく、その物を『 美味いだの まずいだの 』と 評価の対象にしてはいなかったでしょうか。 動物であれ、植物であれ、そこには一つの“ いのち ”があり、精一杯“ いのち ”の光を放っ ていたものが、私達人間の“ いのち ”を永らえ させるという目的で“ いのち ”を下さったから こそ、私達は その“ いのちのご恩に対して ” ありがたく いただきます ”であったのでした。 その事を『 お金を払っているんだから・・・』 と開き直る所には、あまりに悲しい無明の姿で あると言えるでしょう。そのような悪業を繰り 返しながら、いのちを尊ぶこともせず、自分の 都合や自分の利益の為だけに『 神仏に祈ったり 供養をおこなう姿 』を宗祖・親鸞聖人は和讃の 中で 『 外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜ しむ 貪瞋邪偽おほきゆえ 奸詐ももはし 身にみてり( 正像末和讃・悲歎述懐讃 ) 』 “ 外面に現れた身のふるまいはひとごとに 賢く善を行いつとめているかのように見せ かけながら 心は貪り瞋恚の偽りばかりで だますこと数知れない身である ” と自らを悲歎されています。 口ではきれい事をならべながら、善行・供養を 行っているとしても見せかけだけであると共に、 心の奥底には妬み怒り、貪りの心が渦巻いている 姿・・・それは、私達一人一人の姿でもあったと 気付かされます。“ いのち ”をいただきながら も感謝しようともしない姿・・・それはまさしく 人間の外面をしながら、心の中は貪瞋邪偽そのも のであると言えましょう。 どうぞ、いただいた いのちとご縁を大切に。合掌 あなたのいのちと わたしのいのちに ありがとういただきます
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2008年1月上期 『 生死の苦界 』 住職・吉井 誠光 日々、暮らしておりますと“ ちょっとした ”悩みから 生死にかかわる苦しみまで、人には人それぞれの悩みや 苦しみが絶えないものです。楽しく笑顔の時間が永遠に 続く事を望みながらも、それが叶えられない世界・・。 自分の思うように物事が進まない世界・・それが苦界と 説かれた人間界の現実の姿であります。 その“ いのち ”の中で私達は 自分の思うように物事 が進まないとそれに腹を立て、病気になった時には『 真面目に生活してきた私がなぜ 』と落胆し、年を重ね れば、若い者を羨み『 今時の若い者は・・』と愚痴り ・・ 。と“ 我 ”が本位の日々を送ってはいなかった でしょうか? そしてそこから目をそらすため、あるい は思い通りの一年を迎えたいがために、神頼み・仏頼み に走ってはいなかったでしょうか? 過去からつながる深いご縁の中でいただいた、私達一人 一人の“ いのち ”は、決して他人と比べるためのもの でも、苦界と説かれた現実を直視せず逃げるための生き 方でも、もしくは物質的な欲求を満たすための生き方で もないと言えましょう。ある障害を持たれた方の手紙に は、ご自身のいのちを直視すると共に、生かされ生きる いのちを次のように味わっておられます。 『 私はふつうの幼児とは違い先天性骨不全という病気 で、いつも苦痛と死とが友でした。幼い頃から多く の新興宗教の方が、大変まれな病気の私の噂を聞き つけては訪れ、祖先の祟りだとか、前世の呪いだと か言いつのり勧誘にきました。 しかし、もともと安芸門徒の祖母や母の篤い信心に 影響されて、私は如来さまを知らずしらず慕ってい ました。とはいうものの、思春期を迎えた私は自分 の病苦の重さにあらためて驚き苦悩しました。 これを治せない宗教なんて、と浄土真宗にひそかに 八つ当たりをして呪っていました。そして自殺した いと念願し続けていました。でも、幼い時から私を てらしてくださり続けた光明の一条が私へ問い続け ました。 『 何のために生きるのか 』『 何のために?』と。 そのとき『 人身受け難し 』『 無碍の光明は無明の 闇を破する恵日なり 』のお言葉が、私の人生を強く ゆり動かしたのです。濁った空気の中に清風が吹き ぬけた感じです。ショックでした。でもそれは安ら ぎでした。ささくれた心に何百時間ぶりに感じた深 い安らぎでした。 『 私は仏さまに遇うために生まれさせていただいた のだ 』という強いうなずきでした。永劫の時間を感 じました。浄土真宗という宗教は、ほんとうに私を 目当てに開かれ、思惟してくださったのだと思いま した。いま、こうして病気の身ですが、身の健康を 与えられたよりもほんとうの人生の意義を感じさせ ていただいています。(略) ( 真宗法語のこころ・中西智海師 より ) 』 この世に“ いのち ”をいただいた大きな意味・・・ それは“ 生死の苦界ほとりなし ”と説かれたように、 深い苦悩の現実が広がる“ 人としてのいのち ”を生き る意味を問うと共に、人間誰もが持ち続ける苦悩を“ ありのまま ”に照らし出された“ いのち ”にめざめ させていただくことでした。そして、その苦悩を抱え 続ける私達一人一人を『 救わずにはおれない 』と誓い 願い続けていた阿弥陀如来の誓願に気付かせていただく ための“ いのち ”であり“ 人生 ”でありましょう。 浄土真宗の教えは、病気を治すためでも、事業が上手く いくためでも、まして先祖方を供養するための教えでも なく、今を生きる私達に対して、波のようにつぎつぎと 押し寄せてくる苦しみと悩みの現実から逃げかくれせず 阿弥陀如来の誓願である『 摂めとって捨てたまわぬ 』 のまことをいただき、苦悩と共に歩ませていただく安ら ぎであるといえましょう。 私を含め、一人一人の人生にはそれぞれの悩みや苦しみ があるものです。しかし、そこに『 私ばかりが・・・』 と嘆き悲しむ生き方でなく、『 苦悩を教えていただく ご縁であった 』しかし『 阿弥陀如来にいだかれ、願わ れ通しのいのちであることを気付かせていただく人生で あった 』と感謝を申す生き方でありたいものです。 どうぞ、いただいた いのちとご縁を大切に。 合掌 苦悩を照らしだされ 自らの闇の深さに気付かされる
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