浄土真宗 本願寺派・善行寺
 西本願寺 川口布教所
ひとくち法話
The introduction of the Zengyoji Buddhist Temple.
    お寺の掲示板に掲載中の『 法語 』をもとにした ひとくち法話のページです。

2006年

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    2006年12月上期・下期 

 
 『 共に 』


  お寺のホームページを開設させていただいてから、多くの方
  とのご縁をいただき、その中で様々な ご相談や悩みごとを
  ありのままに打ち明けて下さる瞬間をいただいています。
  相談事や悩みの事柄も、家族のことや、病気のこと、身内
  の方の死や、事業に関する悩みまで実に多種多様です。
  
  私も含めて現代社会に生きる私達には、常にそういった
  苦しみや悩みが尽きない人生であることを、教えていただ
  いているように感じます。いえ、国や時代や民族が違っても
  人間・そのものの苦しみであることを 『 人生は苦なり・・・ 』
  と、約2500年以上も昔に お釈迦様が教えられましたが、
  まさに2500年以上経っても解決されない 人間のありの
  ままの姿でありましょう。

  思えば、人間として同じ いのちを幸いにもいただいた私達
  ですが、それぞれが口に出さなくても、それぞれの心の中で
  それぞれの悩みや苦しみや不安を感じながら、向き合いな
  がら生きていかなくてはならない姿が現実としてあります。
  しかし、私達はなかなか その悩みや苦しみの根本から目を
  そらさず、ありのままに人生は苦であったとはいただけない
  ものです。

  悲しいかな、そこには 『 他と比べてみたり 』 『 自分にない
  ものを持っている者を羨み妬み 』 『 なぜ私だけが・・・ 』 と
  悲観的に見てしまう、私達の、もう1つのありのままの姿が
  見えてきます。まさに、真実を真実として見ようともしない
  煩悩具足 ( ぼんのうぐそく ) の凡夫の姿であると言えま
  しょう。

  しかしながら、人には度合いの違いや悩みの論点の違いは
  あれ、それぞれにそれぞれの悩みがあり、人には見せなく
  とも、苦しみを抱きながら、苦界( =人間界 )の人生を、この
  瞬間も歩んでいるということを忘れてはいけないのではない
  でしょうか。

  時には楽しいことや嬉しいこともある・・・だからこそ、苦しい
  ことや悲しいことも同じように訪れる。それが人生の姿であり、
  人間界の現実であり、生・老・病・死 と共に歩んでゆかなけ
  ればならない私達のいのちであったと、ありのままにいただき
  たいものです。

  おなじいのち・・・、そこには おなじ苦しみと、悩みと、その中で
  散りばめられた、喜びや嬉しさの人生を、一人一人がいただ
  きながら、今日も生かされ生きてる、このいのちでありました。

  どうか、いただいた このご縁を大切に。  合掌

                              住職 ・ 吉井 誠光

 【  ともに悩み・ともに喜び

       ともに歩ませていただく

             おなじいのち 】









    2006年11月下期 

 
 『 宿縁 』


  私を含めて、この掲示板や ホームページ上の 一口法話の
  ページを ご覧いただいている皆様一人一人が、多くのご縁に
  よって、この世に 『 いのち 』 をいただいて、この時代、この
  世界に生まれさせていただき、生かされ生きてまいりました。

  途切れることなく 遠い過去から、この私の いのちに至るまで
  つなげていただいてきた、いのちのリレー・・・。
  そこには、全ての人に 何かしら願いが込められ、数知れない
  ご縁の中、いただいた 『 いのち 』 であったといただきたいもの
  です。

  しかしながら、振り返れば 何気なく過ぎゆくままに日々を送って
  しまいがちの人生となり、せっかくいただいた いのちであるはず
  なのに、掃いても掃いても積もる落ち葉のように、思うようになら
  ないからと、他人に対して愚痴り、怒り、妬みを繰り返すばかりの
  日々であり、いのちとなってはいなかったでしょうか?

  人間ですから、人生の日々の中には腹も立つ事もあるでしょう。
  仲間に愚痴ってみたい日もあるでしょう。そして、自暴自棄に
  なってしまう瞬間があるかもしれませんね。

  でも、どうか そんな瞬間に 『 ふと 』 思い出して下さい。
  私達、全ての 生きとし生けるもの達は、多くのご縁によって
  幸いに いのちをいただき、生まれさせていただいた事を・・・。
  そして流転を繰り返してきた いのちが、浄土の真宗という
  み教えに出遇わせていただいた瞬間、大いなる存在に願われ
  決して一人にしないと抱かれ、慈悲に包まれた いのちであった
  と誓われている事を・・・。

  全ては、縁の積み重ねと、遠い過去からつながる宿縁であり
  願われてきた 『 いのち 』 であったといただきたいものです。

  どうか、いただいた このご縁を大切に。  合掌

                              住職 ・ 吉井 誠光

 【  いのちを・ご縁を・

     そして慈悲をいただき

        私達は生かされ生きている 】










    2006年11月上期 

 
 『 この日・このいのち 』


  私達は この世に人間としての いのちをいただき、今日という
  日を生かされ生きております。しかし、振り返れば 人生の日々
  の中には、苦しい日があり、楽しい日があり、悩む日もあり、又
  嬉しい日もあった事でしょう。 そこには、2度と繰り返す事の
  出来ない 『 今日 』 という 一日を、全ての人達が等しく迎えて
  いる事に気付かされます。
  
  思えば、日々の生活の中で 私達は 多くの人に出遇い、又
  別れという ご縁もいただきながら、日々 この人生が彩られ
  成長させていただいている事を実感します。

  全ての人や物や事柄が移り変わり、常が無い世界 (諸行無常)
  の中を歩む私達の 『 いのち 』 の姿を、本願寺・第八代 蓮如
  上人という方は、『 今日とも知れず 明日とも知れず 』 とご自身
  のお手紙の中で詠まれましたが、その言葉通り 誰にとっても
  やり直す事が出来ない今日という日があるからこそ、 『 今日の
  いのち 』 が、あらためて尊いものであったと言えるのでしょう。
  
  それと共に、かけがえの無い 『 今日の いのち 』 をいただき
  この瞬間も時が過ぎゆく中、いのちの灯火を燃やしながら生か
  され生きている不思議さ、というものを あらためて感じる事が
  出来るのではないでしょうか。

  考えれば、私達が生まれるより遥か過去からつながってきた
  多くの ご縁によって、いただいた このいのち・・・。
  そして、そのいのちを彩る人生形成の中にある今日という日。
  2度と戻れない日であり、いのちであるからこそ 『 いただいた
  いのち 』 への感謝の念と共に、『 いただいた 今日 』 であった
  と、精一杯歩ませていただく一日にしたいですね。

  どうか、いただいた このご縁を大切に。  合掌

                              住職 ・ 吉井 誠光

  【  再び通ることのない

     今日という日と・今日のいのちを

              いただく私達 】









    2006年10月上期・下期

 
 『 人生の雨の日 』


  人生を歩む私たちには、悲しい事、苦しい事が数々訪れます。
  恋愛、就職、仕事、家庭、病気、最愛の方との別れ・・・・。
  思い通りにいかない人生の中、その時々に悩み・苦しみ、そして
  悲しみの繰り返しが、私たちの人生の姿でもありましょう。

  楽しい事、嬉しい事が続く 思い通りの人生を望みながらも
  そうはいかない現実。それは まさに、お釈迦様がおっしゃった
  様に、この世界は苦界 ( 苦しみ・迷いの世界 = 人間界 ) で
  あり、その中を、私たちは一喜一憂しながら歩んでいる姿があり
  ます。
  
  悲しい事、苦しい事が続く時、私たちは時として その苦しみを
  悩み、そうなった過程を恨み、時として 人に愚痴り、怒る日もある
  のではないでしょうか。

  まさに、その時々の境遇が自分本位に向わないからこその怒りで
  あり、悩みであり、愚痴であったといえましょう。
 
  人生における 逆境という雨の日・・・、しかし思えば 長梅雨が
  何時の日か晴れて 真夏の空が広がるよう、人生にも逆境という
  雨の日ばかりではないという事を、また順境という晴れの日ばかり
  でもないという事を、『 諸行無常 』 という教えで顕されていた事に
  気付かされます。
  
  悲しみや苦しみが、天気のように急に晴れる事はないかも知れま
  せんが、後ろばかりを見て 逆境を逆境だと愚痴るのではなく、人生
  における雨宿りの時間であり、自分を見つめ直すご縁であったと
  いただけるようになりたいものです。

  どうか、いただいた このご縁を大切に。  合掌

                               住職 ・ 吉井 誠光

  【  晴れぬ長雨がないように

       悲しみに暮れる日が

           続くものではない 】








  2006年9月下期

 
 『 生かされ 生きる 』


  私たちは人としての “ いのち ” をいただき、今を生かされ生きて
  おります。思えば、多くの ご縁と、数知れない方々のつながりが
  なければ、この “ いのち ” をいただく事はなかったと言えましょう。

  私には父と母がおりますが、その父と母にも それぞれ父・母がいま
  した。この私につながる、親・祖父母・曾祖父母・・・を32代前まで
  さかのぼると、今の地球の人口をこえる程の直系の祖先 が、この
  私の “ いのち ” につながっていたのです。

  はたして、それが当たり前の事でしょうか。私につながる、たった一人
  でも縁がつながっていなかったなら、この私の “ いのち ” というもの
  はなかった、といただく時、この “ いのち ” が、いかに多くのご縁の
  中にあり、この “ いのち ” そのものが “ 生かされ、いただいた
  “ いのち ” であったかという事を実感します。

  『 禮讃文 【 らいさんもん 】・( 三帰依文 )』 の最初にこうあります。
  『 人身受け難し、今すでに受く、佛法聞き難し、今すでに聞く・・・・ 』

  人としての “ いのち ” を受ける事の不思議さと難しさ・・・。思えば
  日々の暮らしの中、何気なく過ごしている私たちの “ いのち ” が実は
  過去からつながる多くの ご縁の中にあると共に、この今も生かされ
  生きている不思議さと ありがたさを感じます。

  どうか、いただいた このご縁を大切に。  合掌

                                住職 ・ 吉井 誠光

  【  いのちの縁をいただき 生かされ

        この今も 共に生きている 】




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